1.前田綱紀の時代
加賀人形は、加賀藩4代藩主前田綱紀が京都より人形職人を招き、御所人形の製作修理にあたらせた事がはじまりと言われております。
御所人形職人は加賀藩主前田氏の文化奨励により、加賀藩の文化を表現する人形を創り、それが加賀人形の原型となりました。 御所人形には桐塑製のものがあり、桐の大鋸屑と麩糊を混ぜた粘土で造られております。 加賀藩では桐工芸と麩の製造が盛んであったため、御所人形の材料が揃っていました。 桐工芸では火鉢が有名であり、白山麓、特に鶴来で伐採された桐が用いられておりました。 金沢では郷土料理の治部煮に麩が用いられていること等から、麩の製造が盛んでした。 加賀藩前田氏の文化奨励と地場産業があったからこそ、加賀人形が誕生したと言えます。
しかしながら、加賀人形は加賀藩に根付きませんでした。
原因は多湿な気候風土といわれております。
加賀人形は御所人形と同様に桐塑製の人形です。
桐塑製の人形を製作する際は乾燥の工程が重要となります。
多湿な気候であった加賀藩では乾燥の工程に骨が折れました。
そのため、加賀人形は工芸品としてそれほど隆盛せず、いつしか希少なものとなりました。
2.昭和初期
次に加賀人形が歴史に登場するのは昭和初期です。
金沢市野町で薬局を経営していた大橋治三郎は加賀人形を文献等で調べ、自らの手で復刻させ、作家名として自らを晃山と名乗りました。
この初代晃山が現代加賀人形職人の祖となります。
初代晃山の時代、加賀人形は商品としてではなく工芸作品のひとつとして世に広まっていきます。
加賀人形が商品として本格的に販売され始めたのは、二代目晃山の時代からです。
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